“救急患者のたらい回し”を防げ!―iPadを使い救急医療の可視化を実現した佐賀県
円城寺雄介 氏(佐賀県健康福祉本部医務課医療支援担当主査)
2011-10-7
円城寺雄介 氏
医療崩壊と言われる中,特に救急医療は大きな問題を抱えている。専門医の不足などにより救急患者の受け入れが困難であったり,1施設に患者が集中して対応ができなくなるといったことが各地で起きている。また,患者のたらい回しなどが社会問題として取り上げられる機会も増えている。こうした状況を解決するために,佐賀県ではiPadを救急医療に活用する取り組みを始めている。
■はじめに―日本初! 県内すべての救急車にiPadを配備!
救急医療の現場は,言うまでもなく生命を救うために一分一秒を争う厳しい現場である。しかし近年,救急車で運ばれる人の数が増えてきているなどの理由から,救急車で搬送したくても受け入れ可能な医療機関がなかなか見つからないということが日本中で問題になっている。
そこで,佐賀県では全国に先駆けて,県内すべての救急車にタブレット型端末iPadを配備し,救急車の中から「どの医療機関が受け入れ可能か」「どの医療機関に搬送が集中しているか」といった現場の情報を医療機関と救急隊が瞬時に共有する取り組みを始めている。
“生命を守る最前線の救急医療の現場で何が起きているのか?”について,佐賀県の取り組みをご紹介させていただく。
■ねらい―救急医療現場の崩壊を防げ!
いわゆる“救急患者のたらい回し”が大きな社会問題となって5年以上が経過しようとしている。しかし,救急車で運ばれる人の数は年々増え続けており,全国的には10年前より100万人も増えているにもかかわらず,救急患者を受け入れる医療機関や救命医師の数は依然として不足が続いている。
その結果,119番通報から病院搬送までの時間は毎年のように過去最長を更新しており,こちらも全国的には10年前よりも9分長い時間がかかっている。さらに,搬送時のトラブルや訴訟の件数も増えていることから,医師の間でも救命医師を希望する者が年々少なくなっており,人手不足のため夜勤した救命医師がそのまま日勤をするケースも少なくない。救急医療の現場は疲弊し,まさに崩壊の危機に直面している。特に若い医師が救命を敬遠するという状態が続けば,10年後には現在最前線で活躍する救命医師たちも年齢的・体力的に第一線を支えることが難しくなってくる。救命医師がいなくなってしまえば,自分や自分の大切な人たちに何かあった場合にも,救急医療サービスを受けることができなくなってしまう。そんな日がやって来るかもしれない。
そこで私は救急車に同乗させてもらい,救急隊員や救命医師に密着して,実際の現場に立ち会い,県内各地の救急隊員や救命医師の話を聞いて回ったところ,医師不足など課題はたくさんあるが,その中でも「医療機関と救急隊との情報共有が十分ではない」という課題があることがわかった。
現在,どこが受け入れ可能な病院かわからない,どこで何件,救急搬送が発生したかわからない,どの病院がいつ,何件受け入れしたかがわからないのである。
救急隊は救急車の中から携帯電話でひたすら医療機関に電話し,医療機関側は救急隊からのホットラインを待つだけで,ほかの病院の状況もわからないという手さぐり状態の中で,まさに現場の人間の必死の頑張りで支えられているという状況だった。
そこで,リアルタイムに救急現場の情報を確認・発信できるようにし,「現在どの医療機関が受け入れ可能であるのか」「ほかの救急隊はどのような搬送を行っているのか」「どの医療機関に搬送が集中しているのか」といった情報を関係機関で共有する仕組みづくりが必要だと強く感じた(図1)。
■運用方法―なぜiPadだったのか?
私はこの状況を打開すべく,ICTを活用して関係者間の情報共有や連携強化を推し進めることとした。しかしながら,救急車には車載の携帯電話しか通信手段はなく,現場では電話をかけまくるしか方法がないという状況であったにもかかわらず,現場からはICT導入に反対意見が相次いだ。
モバイルパソコンは操作が煩雑で救急車には置く場所がない。スマートフォンは画面が小さすぎて操作が煩雑,そして何よりも,携帯電話を操作する姿が「救急隊員が搬送中にメールを打ったりして遊んでいるように見える」というのがその理由だ。
途方にくれていたところ,2010年5月に画期的なデバイスが発表された。それがAppleのiPadだった。大画面でタッチパネル,しかも起動も速いという,モバイルパソコンとスマートフォンの利点を兼ね備えたこのデバイスを活用すれば,きっと救急医療現場でもICTが活用できると確信した。また,iPadは強固なセキュリティが魅力であり,情報漏えいリスクが他業種よりもはるかに高く深刻な医療現場には受け入れやすいという側面もあった。
何度も現場の救命医師や救急隊員と議論を重ね,また開発チームとは常に「あるべき姿」を確認し合い,できない理由ではなく,「できるためにはどうすればいいか」を話し合った。
そして,関係者全員で救急現場の情報共有ができる仕組みを構築することができた(図2,3)。
■メリット―ICTが実現した救急医療現場の可視化の効果
救急車にインターネット環境を整備したことで,救急車の中から搬送先の医療機関を検索することができるようになった(図4,5)。検索結果についても救急隊の要望に応え,医療機関の受け入れ可否情報に,「この情報は何時何分に更新されたか」というタイムスタンプを表示し,1日以上更新されていない医療機関については,一覧表の最下部に灰色で表示されるようにして,新しい情報と古い情報を区別することができるようにした。
医療機関側の入力頻度についても1日朝夕の2回にし,入力内容も簡素化することで負担を大きく軽減した。さらに「積極受入」という表示を追加し,医療機関側も自らの専門診療科目や特色をPRできる仕組みをつくることで,入力率も大幅にアップした。
また,搬送終了後,「いつ,どこで,どんな患者を,どの医療機関へ搬送したか」という搬送実績を救急隊にiPadで入力してもらうことで,医療機関ごとの最新の搬送受け入れ時刻とその内容,24時間以内の搬送実績と受け入れ不可の時刻,不可の理由(処置中,満床,専門外など)を救急隊同士で共有できるようになったため,短時間のうちに同じ医療機関に救急車が2台も3台も行かないように救急隊も考えて搬送先を選定することができるようになった(図6)。医療機関においても,救急隊が搬送実績を入力してくれることで,自分の地域の救急搬送の発生状況やほかの医療機関の受け入れ状況を把握できるようになった。
その結果,受け入れ状況については,1回で受け入れ先が決まった割合が導入当初の4月は88.0%であったが,6月90.5%,7月88.8%と高くなってきた。1回で受け入れ先が決まる割合が高くなれば,その分,搬送先医療機関の選定に要する時間は短くなり,搬送時間の短縮にもつながる。
実際に運用開始した4月のデータを分析したところ,33.2分となっており,2009年実績の33.7分と比較すると約30秒の短縮効果が出ている。大したことがないように思われるかもしれないが,救急医療における30秒という時間は大きな意味がある。短縮できたこの30秒で,例えば気道の確保や点滴などの処置を行うことができる。この処置が生死の明暗を分けることもあり,またその後の社会復帰までの時間に与える影響は非常に大きい。
さらに,搬送先が集中していることが“見える化”により共有できたことで,搬送先医療機関も分散化の傾向を見せている(図7)。佐賀県は全国平均に比べると三次救急医療機関への搬送割合が高く,しかもこの10年間で搬送割合が2倍に増えており三次救急医療機関の医師の負担も大きくなっていた。しかし,システム導入後,三次救急医療機関への搬送割合は前年平均32.7%だったものが,6月に30.7%,7月には28.9%と低下の傾向が見られるようになった。この搬送先医療機関の分散化により,これまで搬送が集中していた医療機関の医師の負担も軽減していると考えられる。
■今後の展望―救急医療をきっかけに,医療全体でいままで以上にICTの活用を!
2011年4月に運用を開始して4か月程度経過し,現場の救急隊員からは「救急車の中から受け入れ先の医療機関を検索できるようになり,使い勝手が良い」「受け入れ可否情報が更新日時順に表示されるため,情報の信頼性が高い」「医療機関の直近の受け入れ可否情報を共有できるようになったため,搬送先医療機関を選定しやすくなった」などの声が聞こえてきている。
救命医師からも,「ほかの病院の受け入れ状況や地域の現状が初めてわかった」「リアルタイムで状況がわかるのは非常に良い」という声が聞こえてきている。
一見すると,ICTと救急医療とは結びつかないようにも思われがちであるが,一分一秒という時間との勝負である救急医療にこそ,情報の質,量,そして何よりも速さを人間の力では及ばないレベルで実現できるICTとの相性は抜群だと言える。そのICTの力を十分に発揮させるためには,すばやく,どこでも,そして簡単に利用することができるiPadのようなタブレット型端末は不可欠であると確信している。
そして,これからはiPadを救急車に載せるという“話題性”を生かして,一人でも多くの人に救急現場の状況を伝えていくことで,救急現場が抱える課題・問題を日本中で共有させていきたい。
「課題や問題は,それがどんなに正しく深刻であっても,みんなが課題や問題だと認識しなければ,課題や問題になりえない」。行政の世界で言えば,予算がつかない,事業化もされない。即効性はないかもしれないが,救急現場の状況を多くの人に知ってもらうことこそが最も重要なことだと,私は考えている。それが大きな意味での可視化につながる。
そして,この佐賀県の取り組みをきっかけに救急医療へのICT導入が広がることで,医療全体でいままで以上にICTの活用が進み,患者側がより良い医療サービスを受けることができるだけでなく,医療現場で働くすべての人たちが生き生きと,そして人の生命を救うことに専念できるようになるようなそんな雰囲気,空気をこの国の中につくっていきたい。
◎略歴
(えんじょうじ ゆうすけ)
2001年佐賀県庁入庁。道路・河川整備業務,金融監督業務,人材育成業務といった職場を経て,2010年から救急医療担当。2008~2009年に早稲田大学大学院マニフェスト研究所人材マネジメント部会にて人が生き生きと働くことができる人材マネジメントを学ぶ。2011年度は,国際モダンホスピタルショウ2011,アジアメディカルショー2011,SoftBankDays 2011,BITS2011など企業での講演依頼も多数受けている。
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